旅の力
THE POWER OF THE TRIP
旅することで新しい自分を発見したり、新しい友ができたり、家族が結束したりできる。旅には人生を変えてしまうほどのチカラがあります。
そんな旅の魅力についていろんな方々に語ってもらいます。
旅することで新しい自分を発見したり、新しい友ができたり、家族が結束したりできる。旅には人生を変えてしまうほどのチカラがあります。
そんな旅の魅力についていろんな方々に語ってもらいます。
フリーライター
よく「旅行中で一番好きな瞬間は?」と聞かれる。
聞く人にとっては、観たかった景色をみた瞬間とか、そこでしか食べられないものを食べた時と答えることを期待するのだろう。
しかし、私にとっての旅のなかで一番好きな瞬間は「旅から帰ってきた時」である。
たいていは不思議におもわれる。
それは、誰もが最も寂しい気持ちになる時かもしれない。
しかし、私にとってはこの瞬間が一番好きなのである。
旅の終わり、飛行機に乗りこみ、やがて祖国への到着を告げるアナウンスが流れる。
空から自分の住む街が見えることもある。
空港に着陸し荷物をピックアップしてバスで家へと向かう。
バスがハイウェイを降りるあたりで見慣れた街並みや建物が見えて来る。
その時に「さあ。また明日から頑張るぞ」という気力のようなものが湧いてくる。
明日からの日常をよりよく生きたいと強く思うエネルギーだ。
旅のエネルギーとでもいうのだろうか。
旅の力である。
その旅が長ければ長いほど、単なる観光ではない非日常的な旅であればあるほど、
生まれてくるエネルギーは大きなものとなる。
旅とは、時として辛いその日常を生きていくためのものである。
日常を生きるために、ひととき日常を離れてみる。
それによって生きるためのエネルギーと勇気を得ることができる。
旅の力である。
【プロフィール】
照屋正雄
フリーライター
旅行会社勤務を経て1990年からワーケションで、出版・広告・WEBサイトをプロデュース。
システムインテグレーター、空間プロデュースも手掛ける。
訪れた国は世界23カ国。
編集者
・
「焼きドーナツHYGGE」経営
初めての海外一人旅は18歳で、行き先は同級生の留学先であるロンドンだった。チケットが安いという理由で選んだ大韓航空でのフライトはソウル経由で約18時間。あまりガラの良くない大阪の団体旅行客に囲まれて、タバコの煙が充満する狭い機内で一睡もできず、ただただひたすら耐えていた。
到着したガトウィック空港で出迎えてくれた友達がホテルまでのタクシーの中でロンドンの歩き方を教えてくれた。
「街を歩く時にはちょくちょくショーウインドーをチェックして、後ろから誰かが付いてきていないか確認すること」
渡英してまだ三カ月の彼女だったが、すでに外国暮らしの洗礼を受けたのだろう。好奇心旺盛だった私はドキドキしながらも、これから始まる旅に胸が膨らんだ。
寮を出る友達の新しいフラット探しに付き合いながら、ロンドン各地を巡る一カ月はあっという間に過ぎていった。印象に残っているのは大英博物館で出合った宗教画、夕暮れ時のストリートを華やかに彩るパブのネオンサイン、中国人が経営するという地下のカジノ、あまりにおいしくて何度も食べたチャイナタウンのスープヌードル、古着や中古レコードに興奮したカムデン・ロックのフリーマーケット、ディスコ帰りにビクビクしながら乗った深夜の地下鉄、高級ブランドが立ち並ぶボンドストリートにハロッズデパート…。あまりにも無知だった私はイタリアの高級ブランド「プラダ」や「グッチ」、フランス製の「ルイ・ヴィトン」のバッグや財布をわざわざロンドンで、しかも日本で買うよりはるかに高値で購入し、帰国後はクレジットカードの返済額に泣くのであった。
大学時代はハワイにはまる。ワイキキではロングステイのアパートを借りてロコ気分。ヒョウ柄のタンクトップを着てボディボードをかじり、真っ赤な口紅と真っ赤なオープンカーでノースショアを目指す大阪の典型的な? 女子大生。旅行中の写真の私はいつも笑っていて、その時間がいかに平和で尊いものであったか、今となっては愛おしい。
初めてアメリカ本土を訪れたのは21歳。マサチューセッツ州のセーラムからボストン、ワシントンDC、ニューヨークまでをアムトラックで南下する行程で、マンハッタンのグリニッジヴィレッジでジャズを聴き、タイムズスクエアでのカウントダウンでは隣の異国の誰かとハグして「ハッピーニューイヤー!」。時はバブルで三菱地所がロックフェラーセンターを傘下に収め、ホテルニュージャパンがエンパイア・ステート・ビルディングを買収するなどジャパンマネーに沸いたニューヨークのシンボル・タイムズスクエアにいる自分がどこか誇らしかったのを覚えている。
旅行費用を捻出するため大学4年間は昼も夜もアルバイトに明け暮れた。就職活動をへて企業から内定をもらったものの、会社に属すことに息苦しさを感じていたころ、ハワイで風景写真専門のカメラマンたちと出会う。自由で格好よさそうな仕事と一眼レフの世界に感動した私は内定を辞退して「カメラマンになる!」と宣言、母を泣かせた。
その後、アシスタントとしてヨーロッパやアメリカ・カナダの撮影に同行させてもらい、実際はキツイ(アシスタントだから)・重い(機材)・眠い(好天が続くと、夕景や夜景を撮影した後にフィルム整理や機材の掃除があり、翌早朝から朝日を待つので眠るヒマがない)とかなりの重労働だったが、これまでに感じたことのない充実感と達成感を得ていた。
アーチーズ国立公園では夜明け前の暗闇の中、ガラガラ蛇が待ちかまえる砂漠をダッシュで岩場によじ登り陽が昇る一瞬を待った。インディアン居留区では鉄砲水に流されそうになったこともある。真夏のデスヴァレーで車がスタックした時は、助けを呼ぶため気温50度近い砂漠を走りサンド・バギーに助けを求めた。空の青や雲のかたち、人の配置がそろうまで観光地で一日中シャッターチャンスを待つこともあれば、落雷や氾濫しそうな川の恐怖に怯えながら車を走らせる夜もある。沈む夕陽が岩山を染める背後から薄紫のグラデーションが迫りくるモニュメント・バレーでは自然と涙がこぼれた。景色を見て泣くのは生まれて初めての経験だったように思う。
写真集や雑誌、広告、観光パンフレットで目にする写真の裏側で、最高の一枚をカメラに収めるために命がけでシャッターを切るプロの現場を目の当たりにし、「自然は撮るのではなく撮らせてもらう」、撮影旅のノウハウ、自然の恐ろしさを学んだこの時間は人生の中で何ものにも代え難い貴重な宝となった。
40歳を過ぎてようやく母となり、これからは息子とたくさん旅に出ようと思っている。息子が5歳の夏にはタイのバンコクとラオスのビエンチャンに2週間滞在したのだが、あれから3年経った今でも時々記憶の断片を語ってくれる。
バンコクで数日過ごした後、寝台列車でラオスとの国境の町ノーンカーイまで行き、ボロボロのバスでメコン川を渡って国境へ向かう。さまざまな国の言葉が激しく飛び交うイミグレーションで、高速道路の料金所みたいな簡易な国境を通過して徒歩でラオスに入った。
首都ビエンチャンはあちらこちらで砂ぼこりが舞い上がる建設ラッシュで、街の喧騒と活気が急成長する経済を物語っているようだった。フランスの支配下にあった影響かクロワッサンがすこぶるおいしくて、コーヒーの焙煎にもこだわっているカフェはどこも洗練されていた。この街で息子の記憶に残っているのは、寺院としゃれた店が立ち並ぶメイン通りから一歩入った路地裏の小さなハーブサウナ店。スチームサウナ室の中でドイツ人のおじいさんに「ガンバレ! ガンバレ!」と励まされたことがうれしくて、顔を真っ赤にしながらも暑さに耐えていたそうだ。ラオスでは苦い経験も。インドカレー店で夫婦そろってひとなめした水にあたってしまったのだ。水には十分気をつけていたはずなのに、よりにもよってバンコクへ戻る前日に。高熱と下痢、嘔吐で苦しむ両親をよそに、幸いファンタで逃げ切った息子は異常なし、一人ケロリと笑っていた。
こうやって振り返ってみると、今日はすでに明日の過去で昨日の未 来と流れていく日常にあって、旅という時間軸はしみじみ人生を記憶する素晴らしい叡智だと思う。
若い頃は家や親から遠く離れた場所を求めたが、今はアジアの居心地がいい。風習や文化・食など日本を含めアジアの魅力をあげればきりがないが、私はアジアに根付く「敬う」という精神が世界中の人々をとりこにしている気がしてならない。年を重ねて子を授かり、私の中の何かがアジアを求めているのかな。コロナ禍で今の夏は断念したけれど、旅好きな夫の大昔の『地球の歩き方』を引っ張り出して「次はどこにいく?」と考えるのもまた楽しい。来年はミャンマーに行ってみたいな。
【プロフィール】
権聖美
編集者、 JTRIP Smart Magazine 沖縄・編集長
沖縄在住。デザイナーの夫とともに「企画・編集・デザインstudio BAHCO」と焼きドーナツ「HYGGE」を営む。2004年南の島の楽園生活マガジン『沖縄スタイル』を作るために沖縄に移住。海外添乗資格あり。
https://hyggeokinawa.shopinfo.jp/
フリーランス・ディレクター
~親愛なるキミ~
「やあ、ご無沙汰だね。どうしてる? ウワサじゃ、世界中でキミ(達)が、とても困ってるとか…。心配だな。だからさ、そろそろキミに逢いたいと思ってるんだ。それに、報告しないといけないこともあるからさ」
=============
まだコロナなんて、無かった、今は昔、な、懐かしき去年(2019)。そんな時代の、お話。
昨年の春から初夏の頃。ボクは、ある「事(件)」で、何もかも失った。中でも大きかったのは、信頼。これが全て。これを無くしたら、仕事も繋がりも、およそ社会で必要なものは、ことごとく、全部アウト。瞬く間に、奈落のドン底に陥った。
それは、初めて経験する、一切の光の欠片さえ無い、絶望。見える物、聞こえてくる音、知ってる人や過ごした場所、何もかもが疼くように痛みをもたらした。誰とも会いたくない。何もできない。日中は自己嫌悪に苛まれ、夜は悪夢にうなされた。まさにギリギリ。「もうデッドエンド…」なのか?
“逃げろ”。
誰かが、何かが、そう呟いた。「…そうか。逃げるか。逃げるんだ。全速力で逃げ出すんだ」。まだ全然終わりじゃない。ボクは、その時、既に知っていた。たとえ、この深刻なクライシスでも、逃げるという道があることを。
必要なのは、「今」と「ここ」の強制終了。身と心の、すみやかな隔離。今ではないいつかへ、ここではないどこかに。それは、理屈ではない。本能の指令。もはや血の様に染み付いた、知だった。
「今」「ここ」という日常からの脱出 → 「いつか」「どこか」という非日常への接続。人は、それを「旅」と呼ぶ。「そうだ。旅だ。旅に出るしかない」。最悪の状況下で、直感的に辿り着いた唯一にして無二の解だった。
思うに、人生で大切なことの多くは、旅から教わった。紐解くと、ボクと旅の関係は、濃い(恋?)。それなりに深くて長くて、もちろんオンリーワンだ。「事」の前までに、およそ35年で20数カ国(地域)を、練り歩いて来た。初めての出逢いは、14歳の夏休み、アメリカでのホームステイだ。以降、高校時代には、カナダに1年留学。大学生の時、当時兄が在住していたベルギーを中心に、欧州各地、主に美術館・博物館を巡り、歴史と芸術を貪った。社会に出てからは、バックパックを背負って、東・東南アジア各国で、躍動する熱き活力をもらった。そうそう、近頃では、インドやNZといった(40代になってからの初めての)南半球が、最もヴィヴィッドなメモリーだ。
“でもさ、続くんだぜ。人生って”。
…まあ、そうだ。当たり前だ。どうするのか、だ。逃げた後に。「まあ普通に、強制終了の後に来るのは、再起動なんじゃない」。そうだ。「今」に続く過去を捨て、「ここ」そのものである居処を離れ、未知の扉を開いてみる。つまり、遠くに越し、これまでとは全く異なる生業にチャレンジする。そんな、大博打とも言える、ダイナミックな再起動構想を、激的に打ち立てた。そこで必要となるのが、とある「資格」。その試験の合格率は、およそ2割強で、一般に難関とされている。おまけにボクは、ズブの素人。突破するには、通常の何倍もの猛勉強が必要最低条件だ。更に、その運命の試験日までは、既に半年を切っている。冷静に考えて、勝ち目は5分以下だった。しかし、だからこそ。この逆境こそが、強力なモチベーションとして興り、じりじりと醸成。同時に、逃げた後の再起動的ヴィジョンが、おぼろげながらも、俄に見えて来た。そしてそれは、即座に、旅の骨組みとして一体化。描いたプランは、即ち、旅先でのスタディハード。言わば、学びのための旅、だ。ボクはそれを「学旅(ガクタビ)」と名付けた。
“お、良いね。ワクワクするね”。
数週間後、ボクは、タイ・バンコクにいた。人生2度目の、実に15年ぶりの上陸だ。
87Lの大きめなスーツケースに、直前に購入した、ありったけの試験対策アイテム(=教科書・参考書、DVDなど教材)と、少しばかりの着替え、そしてカメラをぶち込み、飛んだ。「今」と「ここ」の、終わりの始まりだ。
時候は7月初旬。彼の地を選んだ理由は、ひとえにお得なLCCがゆえ。受託手荷物を入れても1万5000円+α。まあ実は他にも、台北、香港、ソウルといった選択肢もあったが、いずれも数ヶ月~数年内に訪れたばかり。自ずと足は、スワンナプーム国際空港へと向いた。
15年前は、ネパールへのトランスファーで、確か2泊程したが、ちょっとしたグループ行動だったので、自由もきかず、記憶は薄め。それでも、この880万人をも抱える大都市が、あの頃より遥かに近代化しているのは、目に見えて明らかだった。最大の景観的違いは、何と言っても高速鉄道『BTS』。あちこちに根を張る無数の巨大橋柱達が、いやおうなくメガシティ観を増長。その圧や規模は、もはや東京と何ら変わらない。
宿は、中心部から少し南、サトーン地区の裏道の、更に奥まった一角。築数十年は経つ、一泊約800円のまさに爆安エアビーだ。クーラーの無い(!)6畳程の一間にあるのは、ベッドと机&椅子だけ。炊事場、洗濯機、トイレ&シャワーはもちろん共同。それでも、2階だから眺めも風通しも良く、小綺麗だったし、何より宿主(兄弟)がとても親切。加えて、ウォーターサーバー設置で、調味料やインスタントコーヒーも24時間使い放題。もちろんWi-Fi完備で、言うことなんて何もない。ここで、およそ1ヶ月間、学旅人として、巣籠もった。
季節は雨季。過酷な厳暑を覚悟していたが、年間で最も暑い暑気(3~5月)は過ぎており、そうでもない。天気も、雨のシーズンとはいえ時折スコールが降るくらいだし、気温こそ月平均最高気温は34.5度にもなるが、湿度は気になるレベルではない。思いがけず不快感はなかった(今は、むしろ国内、東京の夏の方がよっぽど地獄だ)。
日々のルーティーンは、大体決まっていた。朝は8時頃起床、涼しいうちに、近く(1km強)にあるランナーの聖地『ルンピニー公園』で40~60分程ランニング。戻ってシャワーを浴び、近くの屋台で買った30THB(当時1THBは3.5円前後)程の朝食後、部屋で3時間程集中して、机に向かう。走った後の、午前中は頭も冴え、最も捗る時間だった。脳を酷使すると、もちろんブドウ糖を大量に消費する。すると腹が減る。腹が減ったら、潮時。近くの大衆食堂やフードコートで、これまた50THB以下で、昼飯。食事処は、無限にあるので、全く困らない。午後は、さすがに部屋も暑くなるので、気分転換も兼ねて移動。リュックにノートPCとカメラを入れて、探索気味にポチポチ歩く。2~4kmの徒歩圏内には、無料Wi-Fi&電源完備のいわゆるノマドカフェが沢山あった。中でも、ボクは、「最大70THB以下のカプチーノ」に拘りつつ、いくつかお気に入りを見つけた。最も愛用したのは、シーロムの『サイドウォークカフェ』。店員のお姉さんがカワイイ。そして、知られざる穴場は、アソークのショッピングセンター『ターミナル21』の共有テーブル。地下のテイクアウトでカプチーノを買って、3Fか4Fのコンセント付きテーブルベンチに陣取る。椅子は堅く快適性は0以下だが、全然OK。思えば、カプチーノ(の味と値段)に拘って、ワークスペース@学旅を探すのは、あの時、唯一にして最大の楽しみだったかもしれない。
こうして午後も4時間程根を詰めたら、疲れ果てて、帰宿。大概晴れていたいので、ほぼ毎日往復4~6kmは歩いた。そして時に、前日飲みすぎて、朝、ダウンした際には、夕方に走ったりもした。夜は、タイ産の、主にビール(ワインやウイスキーなど輸入物は、驚愕の高額で、とても手が出ない)や焼酎(これは相当に悪酔いする)で、部屋に籠もって独り飲み。アルコールに浸り、YouTubeを見続け、いつしか寝墜ち。観光的要素やエキサイティングなメニューは、まさしく皆無。ただひたすらに、寝て起きて、食べて飲んで(水とコーヒーと酒)、走って歩いて、後は勉強だけ。これ以上ない程、ストイックに、そして静かに、ボクの学旅は進行していった。
「この広大な街で、誰にも知られることなく、変人めいた日々を送る異邦人」。そんな奴は、他に誰一人としていない。間違いなく、誰一人として、だ。そう考えると、何だか面白おかしい気がした。
“来て、良かったじゃん”。
それでも、最初のうちは、寄せては返す様々にして複雑なディプレッションから、完全には逃れられなかった。酒の量は必然多くなり、なかなかに危険だった。相変わらず悪夢にうなされ、まだ暗い4時頃、嫌な汗をしこたまかいて目を覚まし、朝まで眠れないということが、何度もあった。
ところで、宿の隣は大きな邸宅で、壁越しに見える広い敷地内には、亜熱帯の緑達が瑞々しく生い茂っていた。野生動物も少なくなく、リスも数匹住み着いていた。また朝方には、聞いたこともない、けたたましい、南国の見知らぬ鳥達(姿こそ見えないものの、恐らくまあまあでかくて、極彩色。勝手にそんなイメージを抱いていた)の声が、涼し気な空気をつんざいた。
最初こそ耳障りだったその鋭い音も、いつしか、聞こえない日は何と何なく寂しい気がした。それは、今思えば、傷付いた魂の回復の兆しだったのかもしれない。
思い返せば、数週間前の、あの絶望の際で、猛勉強なんて所作は、どう考えても不可能だった。だからこそ、逃げた。知る人が誰もいない場所へ。見覚えのある風景が何も無い街へ。はるか遠方の大陸。エキゾチックのど真ん中へ。
こうして、日々は過ぎた。ドンドン過ぎた。午後の勉強場所の候補は既に4つ程見つけていたし、ランニングも1.8kmくらい行けば、また別の『ベンジャキティ公園』もあった。一日として同じ日が過ぎることはなく、それどころか、ネットで探して、あれこれ新しい居場所を見つけた喜びはひとしおで、見知らぬ路地に一歩踏み出すのは、ワクワクしかなかった。だから、退屈とか飽きといったものを感じることは終ぞなく、むしろ近づきつつある「旅の終わり」への、寂しさだけが膨らんでいった。
本来は、圧倒的な孤独を感じてもおかしくない展開だが、何もかもを喪失したボクにとって、それは実に心地良く、安らぎに満ちた時間だった。確かに、“微笑みの国”、タイ特有の、コンフリクトを好まない穏やかな国民性、南国ならではの包容力も手伝っただろう。だがいずれにせよ、時が経つに連れて、少しずつ、「今」や「ここ」といったトラウマを乗り越えつつあるのは、身を持って実感できた。
さて、肝心の勉強の方といえば、実際、相当に進んだ。前知識ゼロ、その分野に関して全くの門外漢だった1ヶ月前に比べれば、見違える程に、研かれていた。設問の意味さえも分からなかった、過去の問題も、いつの間にか解けるようになるなど、確かな手応えがあった。そう、ボクは、れっきとした受験生に変貌していた。学旅は、大正解・大成功だった。
そんなこんなで、濃密なおよそ30日間は、アッという間に過ぎた。そして、(強制終了させた「今」や「ここ」を内包する)帰国という、一つの区切りが近づいても、もう不安は無かった。もう悪夢も見なくなっていた。
ところで、最終日前日。この日、今回初めてとも言える観光へ。早朝から、カメラ片手に、王宮や寺、カオサン通り、チャイナタウンなど、有名所を、グラブ(バイクタクシー)でシラミ潰しに廻った。まあバンコクの主要観光地は、一日あれば事足りる。大いに満足だった。
“さあ、またここからだ”。
・・・・・・・・・
8月中旬に帰国。かくして、ボクの学旅は幕を閉じた。「今」と「ここ」を逃げ出す「強制終了」というコンセプチャルな設定、激的な試みは、およそ、いわゆる「旅」のあり方としては、余りにも奇異で変則的に過ぎたと言えるだろう。しかし。余計なものを一切削ぎ落とし、バチバチに己と向き合い、脇目も振らず、目標を見据えて、かたくなに一秒一秒を過ごす。その一連のシークエンスは、ボクにとって、紛れもなく、日常から非日常への接続であったし、描いていた、逃げた後の「再起動」という予感に満ちた、幸せな時空であった。
・・・・・・・・・
そして、数カ月後。とうとう来た。運命の日が。
“かましてこいよ、思いっきり”。
「オッケーだ。行って来ます!」
これは、まだ、コロナなんて無かった、去年の夏。懐かしい、あの頃の日常の話。“逃げろ”。そうだ、「ここ」から出ろ。
「今」すぐ飛べ。そう呟いたのは、ボクの中の、旅の知だった。そうして、ボクの中で流れる旅の血が、非日常を発動した。それから、バンコクという旅先の地から、始まったのは、未だ見ぬ「今ではないいつか、ここではないどこか」。
何度も言うが、大切なことの多くは、旅から学んだ。旅の知から、教わった。思いも寄らない出逢いや、奇跡的なインスピレーションは、旅の地から、芽を出した。だから、旅はボクの栄養素。エネルギー・血から固まる必須の分母。力そのものだ。
…まあ、とか何とか言って、それより何より、やっぱり旅は、友達。素朴に、かけがえのないダチだ。
でも。今、そのダチはいない…。どこかへ行ってしまった。まるで、(泣いた赤鬼の)青鬼のように。
「ねえ、キミ。キミは今、どこにいるの?」
・・・・・・・・・
あれから1年。コロナという、未曾有の要素があらゆるものに練り込まれた“新たな”日常としての、今が続く。ここで。そこかしこで。だからこそ、そろそろ頃合いだ、“旧知の”非日常への接続が。そろそろ出かけようじゃないか、ダチに逢いに。懐かしい友達に逢いに。
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~親愛なるキミ~
「そうそう。言ってなかったね。受かったんだよ、試験。それで、ボクは新しい道を歩き始めた。全部キミのおかげさ。本当に感謝している。だからね。今度は、ボクの番だ。困っているキミを助けるのは、ボクの番。だから、そろそろ行こうと思っている。キミに逢いに(まあ今回は、始まったばかりの、この道にまた戻るから、ほんのちょっとだけ、なんだけどさ)。そう、今、ここさえ出れば、もうそこに、キミはいる。今ここを出さえすれば、キミと逢える。すぐ行くよ。待っててくれよ。今ではないいつか、ここではないどこかで、さ」
【プロフィール】
小川研
フリーランス・ディレクター/エディター/ライター/フォトグラファー/JLT(日本語教師)
[Kiwamu Ogawa]東京都出身。“クリエイション”&“エデュケイション”、異なる2つのフィールドにて活動する、フリーランス@Toky ↔ Okinaw ↔ Asia。“(自称)世界を歩くクリエデュケイターcreducator)”として、来たるべきシンギュラリティ的ユニヴァースを、能動的にサヴァイヴ。
放送作家
・
フリーライター
・
フォトグラファー
骨格の土台となった旅は、30歳を迎えたときに行った「ガラパゴス諸島」だった。それまで、NY、バチカン、ローマ、パリで新年を迎えるなど、主要都市は回っていたが、ガラパゴス諸島は「行ける」と思ってはいなかった場所だった。
OLを一年足らずで辞めたあと、フリーの放送作家として仕事をしていた折、私が構成していたあるネイチャー系ラジオ番組に、写真家の水口博也さんがゲスト出演した。水口さんは京都大学理学部動物学科卒業ゆえに動物の生態寄りの写真家。トークの中で、「ガラパゴスに毎年調査撮影に行っている」という話がでてきた。よくよく話を聞いてみると、木造船を借り切って諸島の小さな島まで2週間かけて回るという。そして、船室はまだ空いているよ、と言われた。
大学受験科目でもないのに、生物の予備校にまで通っていた生物好きの私としては、ダーウィンのガラパゴス諸島は夢にまで見るくらいあこがれの場所。そこに一緒に行けるとなれば、見送る手はない。アッコさんの生放送のほか、いくつか生放送番組も抱えていたが、するするっと段取りがついて、往復の1週間を加えて3週間休みの調整ができた。フリーなので帰ったら仕事はなくなっているかもしれないという心配が一瞬頭をよぎったが、迷うことはなかった。
成田→シアトル→マイアミ→キト(エクアドル)、そして、そこから木造船に乗り込んで「ガラパゴス諸島」へ。映画「ダイナソー」に出てくるような恐竜時代の姿を残したグンカンドリが空を飛び、島に上陸すれば、これまたミニ恐竜のようなガラパゴスイグアナの群れに、図鑑の中でしか見たことのなかった巨大なガラパゴスゾウガメ、海に潜ればガラパゴスアシカがすり寄ってくる。
調査船は効率よく島を回るために夜のうちに次の島へと移動する旅程だった。ある夜中のこと。こっそり客室の屋根の上に上がり、マストにしがみついて海を眺めていると船長の「ドルフィン!!」の声。暗い海に目を凝らしたそのとき、夜光虫を纏い、月光に照らされてボディがキラキラ光るドルフィン数頭が船に伴走してきた。しかも、私の真横に。これは現実なのだろうか。あこがれの現地に来て、朝も昼も夜もずっと夢見心地で過ごした。
夢に見ていた場所で夢のような時間を過ごした私は、旅に出る快感をからだの髄から味わった。これまでの旅にはない感覚。実験室の標本の様なカタカタいっていた私の骨がつながっていくような。そう、これが30歳過ぎて形成されていく私の骨格の土台となった旅だった。
東京での仕事は、といえば「代わりは見つかったから」とか言われて、なくなる覚悟でいたが、日本に戻ると不思議と放送作家稼業はもちろん、そのほかの仕事も増えていった。
その増えた仕事のひとつが写真だった。ガラパゴス諸島行きの数日前、ふと思い立ってカメラマンの知人に中古で一眼レフを調達してもらい、一日だけ公園でシャッターの切り方とフィルムの入れ方を教わった。使い捨てカメラで撮るのではもったいないかな、という程度の軽い気持ちだった。
しかし、ポジフィルムで撮影した景色や動植物たちは思いのほかよく撮れていて、その写真と文章である大手企業の社内誌の巻頭グラビアの連載を任されることになった。放送作家なので文章書きに戸惑うことはなかったが、グラビアの写真って初めて撮った私の写真でいいの?だが、この後行く先々の写真が掲載され続けていったのだった。
私は子供のころ『野生の王国』『驚異の世界』といった、ネイチャー系のテレビ番組が大好きだった。だから、あんなにまで夢見ていたガラパゴス諸島から帰って一番に思ったのは、テレビの中の世界と思っていた子供のころからの私の夢の世界を、一つずつ現実に換えていこう!ということだった。
次の旅に出るぞ!ガラパゴス諸島の次に夢見ていたのは「この現代に裸族は本当にいるのだろうか、いるのなら会いたい」ということ。そこで次の旅先は800もの部族が未だ暮らす「パプアニューギニア」に決定。今回も某旅行会社の社長という夢先案内人となる人が登場し、「シンシン」というパプアニューギニアの山奥で、各部族が各地から集まって行われる奇祭に行くというので同行させてもらった。
六本木のお立ち台でヒューヒューいって遊んでいた時代に、パプアニューギニアの裸族に出会った衝撃はものすごかった。裸で暮らしているのはもちろん、男性の大切な部分は竹で作ったサックをつけているし、家の屋根には一夫多妻の証で妻の数だけ煙突があったり、豚の脂に色を付け、顔に塗りたくったメイクもイノシシの牙のアクセサリーも子供のころにテレビで見た記憶のままだった。電気がないので太陽が沈めば眠り、昇れば一日が始まる。おもてなし、といって豚をバナナの葉でくるみ土に埋めてくれたのはいいが、熱した石で豚に火を通すまで数時間かかるという。おもてなし料理にありつけるまで半日は待たされたが、どんなに素朴でおいしかったことか。
旅の終わりには海の部族にも会いに行った。彼らは海の上に竹で骨組みを作り、そこにゴザのようなものを編んで敷いて暮らしていた。山奥の部族にはなかった厳しさと豊かさ。見るもの聞くもの、感じるもの、すべてに衝撃を受けた。
夢を現実にしていく旅の実感は、早くも腰骨あたりまで骨格がつながってきた気がした。
ガラパゴス諸島、パプアニューギニアの次の夢の具現化は「野生の王国」そのもの。そう、アフリカだった。動物園ではない、野生のゾウ・キリン・ライオンに会いたかった。が、行ってみてはまったのは「ヌー」だった。彼らは草食の動物でシマウマと行動を共にするが、餌の草を求めて命がけでサバンナを移動する。その中にヌーの川渡りという、何万頭という大群でマラ川を渡って次の大地を目指すシーンがある。これが見たくて5年通った。
遠くからだんだんと大きくなってくる蹄の音、命を懸けて渡り抜ける時の息遣い、乾いた大地を走るたびに巻き上げる土埃。これは、目の当たりにしないと受け取れない彼らの生きるか死ぬかの命の姿。目を閉じるといまでも瞬時にその光景が浮かんでくる。
5年通って撮ったアフリカの動物たちの写真は、十数点学研の動物図鑑に、今なお使われている
その後もアフリカに通っているうちに、気付いたことがある。命を懸けて命を生きているヌーを追いかけながら、自分が求めていたことがあったということに。それは、アフリカの大地とそこに暮らす生き物たちに打ちのめされたかったことだった。東京の華やかで賑やかな人間の欲の坩堝(るつぼ)の中で生活していると、人間至上主義を感じることが多い。が、サバンナに立った瞬間、肩書もお金も地位もなにもかもペラペラに感じる。のぼせるなよ、と頭をガツンと叩かれる感覚を味わいに行っていたのだった。
このことをNHKFMに出演した時にホストだった芸人のひろしにいうと、「これ以上叩かれたくないです」といって彼は会場の笑いを取っていたが、私はもっと叩かれたいと思った。
人は謙虚であれ。大自然に、地球に畏敬の念を払え。
私はこのアフリカの旅を重ねるうちに、骨格のほぼ全体がつながったように感じている。タンザニアのタンガニーカ湖畔にある、霊長類研究科のジェーン・グドール研究所にも泊まり込んで、チンパンジーに会いにゴンべの森にも入った。イギリスの女の子だったジェーンが研究を志し、野生の世界に住み込んだ場所。ガラパゴス諸島に並ぶ、私のもう一つの聖地だ。私はもうどこにでも行ける。
私は40歳に差し掛かり、旅の力によって新しく形成された自分を今後どのようにして生きていくか考えるために、居を東京から沖縄に移した。本当はケニアに住もうかとも迷ったのだが、まだ、日本に何か残している気がした。
ほどなくして、沖縄で結婚し娘も生まれ、ああ、沖縄でこの時間を過ごすためだったのかと思った。そんな娘もあと5年で成人。この20年は家族の時代と受け止め、旅は封印した。
だが、私は旅によって出来上がった骨格に、心を入れないといけない。それが還暦の5年後と考えている。また、夢を現実にしていく旅を再開していかねばならない。何より体力が必要なので、この20年で落ちた筋力を取り戻すために筋トレを始めた。何気に少しずつ準備をしている。
20年封印しても(正確にはあと5年ある)私の中で褪せることのない旅の力は計り知れない。
【プロフィール】
伊藤麻由子
放送作家・フリーライター・フォトグラファー
1964年横浜生まれ。共立女子短期大学を卒業後三菱電機本社に就職するが、何かを考えて自ら行動するという仕事を求められていないことがわかり、同期で一番早く退社。安易に就職したことへの反省も含め、いろいろな仕事をのぞき、ダイビングの出版社を経て放送作家へ転身。また、ガラパゴス諸島へ行くことをきっかけに写真も独学で始める。撮影地は、ガラパゴス諸島の他、ケニア・タンザニア・パプアニューギニア・コスタリカ・グアテマラ・パラオなどなど。沖縄には2002年のゴーヤの日の翌日、アフリカからの帰りにそのまま移住。
雑誌編集長
沖縄の歴史、文化、自然、ひとに着目した雑誌を作っている。海洋国家・琉球の時代から、この島の人々はよく旅をしてきた。ある時代は現在の東南アジアと交易をおこない、中国や日本と頻繁に往来し、沖縄県となった後も世界じゅうに移民を送り出してきた歴史がある。ここ15年ほど、そんな沖縄の移民史をたどる旅を続けている。
最初は旧南洋群島だった。戦前、テニアン、サイパン、ロタ、パラオといった南の島々は、国際連盟の委任統治領として日本が統治していた。サトウキビ農園で働く労働者として、あるいは漁業従事者として多くのウチナーンチュ(沖縄出身者)が暮らしていた歴史がある。サイパンやテニアンでは、沖縄出身者は人口の6割を超えるマジョリティだったという。終戦直後まで島在住だった人と共に、かつての暮らしの話を聞きながら歩く旅は脳内タイムスリップのようで非常に面白く、貴重な体験だった。ブッシュをかき分けて歩くと、廃墟となった製糖工場が現れたり、倒れた神社の鳥居や学校の跡があったりする。かつてサトウキビ列車が停車したホームや、レールが牧場の柵として再利用されているのを見つけたりすることもあった。そして、戦争の傷跡を物語る戦車や砲台の残骸、人工的な壕や洞窟、慰霊碑、日本本土へ向け爆撃機B-29が飛び立った滑走路の跡。島の人たちはオキナワンが来たと言い、戦前からの友人を自宅に招いてもてなしてくれた。戦後75年が経ち、日本統治時代からジャパニーズよりもオキナワンが近い存在だったと語る人も少なくなった。一緒に島を歩いた人たちも、多くが鬼籍に入った。
シャリー、ダン、ジョン、リンダ、ラバーン、そして天国のハワード…かけがえのない友人がたくさんできたのはハワイだ。日系二世の通訳兵として父祖の地・沖縄で多くの民間人を救ったタケジロウ・ヒガさん、ハワイ育ちの兄シンエイさんと沖縄育ちの弟ノボルさんで敵味方に分かれたギマ兄弟、戦死した叔父の同級生と70年の時を経て出会ったダン・ナカソネ、終戦直後の沖縄に豚や山羊、衣類や医療品などの救援物資をハワイから送った人々……遠く離れた島と島とをつなぐ絆の物語は時に悲しく、美しいぬくもりに満ちていた。特にダンの叔父・仲宗根順一のことは思い出深い。たまたま私が写真を見たことがきっかけで、家族にとって70年ずっと消息不明だった順一の母校・同窓会と、ダンをつなぐことができたためだ。順一の母、つまりダンの祖母は晩年になっても遺骨すら見つからなかった順一を思い出しては泣いていたという。ハワイでお墓参りに行くと、墓標には彼女の名前に抱かれるように小さく「JUNICHI」と刻まれていた。
ハワイも沖縄もリゾートアイランドのイメージが強いが、青い海や風にそよぐヤシの木といった一般的なイメージの背後に、独立した王国を失った歴史があり、戦争の爪痕が残っている。南の島の陽射しが輝くほど、落とされる影とのコントラストは強くなるものだ。その影に強く惹かれて、人の物語や歴史を追い続けているのかもしれない。
ブラジルには二度取材に行った。サンパウロやサントスには沖縄系の人が多く、サンパウロ郊外には複数の小規模な沖縄県人会館(といってもバスケットボールのコートを備えた体育館や会議室、調理室を備えている)があり、中心地のリベルダージには中央公民館的な存在の大きな県人会館がある。
住宅地ビラカロンの県人会館を訪れた時のこと。県人会役員のテーリオさんが私たちを案内しながら、グラウンドでゲートボールをしていたシニアの方々に何やらポルトガル語で呼びかけた。「この人たち、沖縄から来ましたよ!」とアナウンスしてくれたのだろう。ゲームを中断して、皆さんが笑顔で寄って来られた。「沖縄から来たの?」「まーんちゅやが?(どこの人かね)」と口々におっしゃる。明らかに「沖縄から来たウチナーンチュ」を期待しておられるので、広島出身であることが申し訳ないような気持ちになる。とっさに「わんぬ生まり島や、島や島でぃん、広島やいびーしが(私の生まれ島=故郷は、島は島でも広島ですが)」とウチナーグチで答えたところ、これが大ウケ。「姉さんのウチナーグチ上等どー!」「じゅんに(本当に)ヤマトゥンチュね?」と一気に笑顔が広がった。
ある3世に「ごめんなさい、日本語は苦手で」と言われ、話の途中で流ちょうなウチナーグチに切り替えられたのには驚いた。「日本語よりウチナーグチのほうが得意という意味だったんですね!でも首里や那覇とは少し言葉が違いますね、どこの方?」今度は私が「まーんちゅやが」と聞く番だ。彼は「わんねーウルクンチュどー(私は小禄人だよ)」と誇らしげに胸を張った。これにはさらに驚いた。今の沖縄の若い世代で、こんなに純粋なウルクグチ(小禄語)を話せる人がいるだろうか。彼は移民1世である祖父母と同居していたため、幼い頃から外ではポルトガル語、家ではウルクグチという環境で育ったのだという。ちなみに小禄というのは那覇空港の辺りで、1954年に那覇市に合併されるまでは独立した村だった。ウチナーグチは隣村でも言葉が違うとされるのだが、今となっては地域ごとの純粋な言葉を話せる人はごく少ない。地球の裏側でウルクグチが生き生きと話されていることに感激した。そして、どんなに遠く離れても、島の言葉を忘れない姿勢に感銘を受けた。沖縄には「
世界各地で暮らす沖縄系の人たちは約40万人いるとも言われ、沖縄では彼らが集まる5年周期のイベント「世界のウチナーンチュ大会」が開催される。前回2016年のウチナーンチュ大会には世界中から約7千人が沖縄を訪れた。その中には、ハワイの友人たちもブラジルの友人たちもいた。国際通りではこの7千人+αのパレードが開催され、沿道には「おかえりなさい」と彼らを温かく迎える県民たちがあふれた。大会フィナーレは約3万人収容の沖縄セルラースタジアムが満席になり、その盛り上がりはフェスそのものだった。
ブラジルでの取材を通して、とても親しい友人となった空手家のフラビオさん。小林流範士八段で沖縄の伝統文化をこよなく愛し、三線も弾きこなす。彼はポルトガル系のブラジル人だが、前々回のウチナーンチュ大会の時はマイカーを売ったお金で旅費を捻出して沖縄へ来たという。「どうして?フラビオさん沖縄の血なんか一滴も入ってないじゃない!」「マイハート、ウチナーンチュ」これには軽くカルチャーショックを受けた。彼はブラジルとアルゼンチン両国で200人ほどのお弟子さんがいるのだが、沖縄系ではなくとも沖縄を愛するブラジル人・アルゼンチン人が多い。2016年のウチナーンチュ大会に続き、2017年8月にも沖縄で開催された第一回国際空手大会へ5人でやって来て出場。空手の聖地Okinawaを満喫して帰っていった。
海の向こうにオキナワを訪ねて行くことで、海の向こうからやって来る友人ができた。旅は、私と世界をつないでくれる存在。2019年11月、ある出来事から、その豊かさ、ありがたさを強く感じることになるとは思いもしなかった。
10月31日、ペルーとブラジルへの旅から帰宅して10時間後、私は「首里城が燃えている」と知人から電話をもらい、カメラを掴んで自宅から首里城へ走って行った。夜空を赤く照らす炎に愕然とし、焼け落ちる首里城をファインダー越しに呆然と見た。くずれていく正殿から「シャラシャラシャラ」と屋根瓦が滑り落ちる音はあまりにも悲しく響き、今も耳に残っている。SNSで火災の様子を中継したところ、世界中からリアクションが寄せられた。
いち早く立ち上がったのはハワイのジョン・イトムラだった。火災を知ってすぐに首里城再建を支援する募金活動を始めたのだ。ブラジルのシンジ・ヨナミネさんやテーリオ・ウエハラさんも「ブラジルの県人会もすぐ動くからね」と、力強く励ましてくれた。つい2日前まで一緒にいた彼らの声を聞き、涙があふれて止まらなかった。そして翌日にはブラジルでも募金口座が開設された。
ジョンに電話をかけた。「マハロ(ありがとう)、ジョン。世界で一番早く動いてくれて、どれだけ助けられたか言葉にできない。あなたは私のヒーローになったよ」と話したら、「イマ⁉」と日本語で返され、吹き出した。「俺たち何年も友人なのに、今さらヒーローかよ。気づくのが遅いよ!」「ごめんごめん」数日ぶりに屈託なく笑った。
喪失感なのかよくわからない衝撃でしばらく何も手につかない状態だったが、毎日ハワイやブラジル、アメリカ本土の友人たちとやり取りを重ねることで、世界とつながっていることを実感できた。首里の友人知人たちと喪に服するような気持ちを分かち合い、世界の友人たちにはとても勇気づけられた。
ペルーで、ブラジルで、アメリカ本土で、そしてハワイで。世界各地で首里城再建支援のチャリティイベントが開かれていることをSNS越しに知り、みんなの温かい気持ちが本当にありがたかった。1年が経った今、沖縄県、那覇市、沖縄美ら島財団に寄せられた国内外からの善意は総額約50億円にものぼるという。
海の向こうの友人たちのおかげで、私も気持ちを前向きに切り替えることができた。今は地元まちづくり団体として沖縄県や那覇市と連携し、観光と地域両方の課題を解決するための市民からの提言をまとめる活動に打ち込んでいる。50年後の首里をどんなまちにしたいかを見据え、2026年に正殿が再建されるまでにできることをと考えている。アフターコロナの時代に一番の課題は道路渋滞をはじめとする交通問題だ。
コロナ禍の今、世界との自由な往来はできない。ウチナーンチュ大会は1年延期され、2022年の開催が予定されている。残念だが、再会できる日を気長に待とう。どんなに離れていても、こころは共にあるのだから。そして、また次の旅に出る日を楽しみにしたい。
【プロフィール】
いのうえちず
沖縄県産カルチャーマガジン『モモト』第四代編集長
『モモト』創刊に伴い、2009年に本拠地を沖縄へ移す。プライベートではNPO法人首里まちづくり研究会副理事長、白梅学徒隊の語り継ぎと慰霊祭の継承を担う若梅会代表、白梅継承の会事務局、糸満帆掛サバニ振興会メンバー。
北海道:札幌「世界の料理とお酒 ハヤシ商店」代表
23歳の時、大阪から上海に向かう船に乗って旅をはじめた。
当時、旅人のバイブル「深夜特急」を読んでいたこともあり、目的はただ「西回りで行けるところまでいく」というものだった。
上海から香港、マカオを経由してベトナムに入り、ひょんな出逢いから東南アジアを自転車で旅することになった。
タイからインドへ飛行機で行くはずだったが、ある本との出逢いがチベットへと導いた。
高山病の苦しみに耐えながらネパールへと抜け、バングラデシュに寄り、インドにたどり着いた。
その後エジプトへと飛び、ヨルダン、イスラエル、シリアと旅して、トルコのイスタンブールに着いた時には、日本を出発してからちょうど1年が経っていた。
お金も底が突き始めたし、アジアと中東をゆっくりと歩けた。
またいつかこの地から旅を再開すると心に誓い、日本へと帰国した。
もうすでに10年ほど前の経験だが、未だにその「旅の力」は自分の中に活きている。
今僕がこの場所にいるのも、この文章を書いているのも、すべてあの旅が繋げてくれたものだと思っている。
そして旅は様々なものを教えてくれた気がする。
上海から旅をスタートし、はじめは人の多さと、あまりにも常識が違う異国に圧倒されていたが、それも次第に慣れていった。
香港では混沌が渦巻く夜街に興奮し、マカオでは人生初めてのカジノに冷や汗をかいた。
中国からベトナム、カンボジアと進むにつれて段々と旅の勘のようなものが身に付いていった気がする。
「この道は安全かどうか。ここの宿は快適か否か。こいつは良い奴かやばい奴か。」など度重なる選択を経て、自分の直感で道を選べるようになっていた。
旅に慣れてきたそんなある日、カンボジアの安宿で一人のチャリダーに出逢った。(※チャリダーとは、自転車に乗って旅をする旅人のこと)
彼は自転車の両サイドにたくさんの荷物を括り付け、颯爽と宿へとやってきた。聞くと日本から半年かけてここまで辿り着き、これからオーストラリアを目指すとのことだった。
彼の話を聞いているうちに、どんどん自転車旅に惹かれていった。
旅に更なる刺激を求めていた時期でもあったので、「一緒に行く?」と言われた時には、即答で行くと返事をした。
小さな町の小さな自転車屋で中古のマウンテンバイクを買い、ザックを積めるよう施した。
ここから僕の自転車旅ははじまった。
地図を広げ、その日の目的地を決めて走り出す。
炎天下の中、がむしゃらに走っていると椰子の木陰から子供たちが「サバイディー!!!」と大声で挨拶をしてくれる。
田舎道の畑では農夫が田を耕し、休憩で寄った小さな商店では地元のおばあさんや子供たちが休んで行けと招いてくれた。
ガイドブックには載らない名も知らぬ土地で触れ合った人々は、会話も通じなかったがとても温かかった。
そんな彼らの飾らない生活は素敵だった。
カンボジアからラオス、タイと旅をした約三か月間の自転車旅。
普通の旅行では見ることのできない光景が見れたと思う。
旅をするうえで、本は欠かせないツールとなる。
長い移動の中で、風景に飽きたら必ず本を開いて読んでいた。
旅人同士のやりとりで「読み終わった本を交換する」というのがある。
自転車旅の終盤あたりで、ある旅人に「Seven years in Tibet」というチベットについて書かれた紀行文をもらった。
本来であればタイのバンコクからインドのコルカタまで飛行機で飛ぶはずだったが、この本との出逢いをきっかけに一度来た道を戻り、中国からチベットを目指すことにした。
旅の予定はあってないようなもの。
今までずっと陸路で来ていたのもあったし、この本の中の世界を自分の目で見ておかないと後悔すると思った。
そこから紆余曲折あって中国の成都から青蔵鉄道を列車で走り、48時間かけてチベットのラサに到着した。
チベットは本に書いてある通り、まさに「神の国」だった。
人々は来世報われるために、今のこの生活、つまり現世を捧げる。
ラサにある巡礼路で、親子が揃って「五体投地」をしている姿が印象的だった。小さな子供から老人まで、心から輪廻転生を信じている。
ラサからはランクルをチャーターしてネパールへと抜けた。
その途中、エヴェレストベースキャンプで一泊した。
目の前に聳え立つ世界一の山を眺め、自然には抗えない自分の小ささを感じた。
信じる心と圧倒的な自然を体感して、神や目に見えない存在がいることを感じる旅となった。
ネパールでは本当の優しさとは何かを知る体験をしたし、
バングラデシュでは「イード」という祭りを通して食べる事、命を頂く事について考えさせられた。そしてインドでは死について深く向き合う場面が多くあった。
その後に訪れた中東の旅。エジプトでは古代のロマンに想いを馳せ、イスラエルやシリアでは戦争という問題を抱えながらも笑顔で生きている人々に出逢った。
それぞれの国で何かしらの出逢いがあり、それに導かれて旅をした。
振り返ってみればこの旅での一つひとつの出来事はすべて繋がっていたように思う。
あの時チャリダーの彼に出逢っていなければ。
あの本に出逢っていなければ。
少しでも何かが違っていれば、このような旅にはならなかったはずだ。
人生でも同じことが言えるが、出逢いの不思議を感じずにいられない。
トルコのイスタンブールで旅は終えてしまったが、その「旅の力」は現在にも繋がっている。
旅をしている最中、これから自分は何をしようかと考えていた。
そこで思いついたのは「自分の店をやる」というものだった。
旅を長く続けていると、いつの間にか旅が日常になってくる。
心が摩耗してくるというのか、何を見ても感動が薄れていくのを感じた。
では、何が旅を先に進めるのか。
僕にとってそれは人との「出逢い」だった。
旅先で出逢う色んな国からの旅人やその土地に住む人と、夜な夜な酒を飲んで語り合う。
そんな夜がとても好きで、これを仕事にしたいと思った。
帰国後、飲食店で修業して3年ほど前に地元札幌に、同じく一年間の放浪の旅をした弟と共に「旅」をテーマにした店をオープンさせた。
毎日カウンターには多くの方が座り、そのタイミングでしか起こりえない出逢いがある。
それは一期一会だったり、関係が続いていったりと形は様々だ。
日々文明が進化しているこの時代。スマートフォンやSNSで簡単に繋がれる時代だが、
こうして現実に顔を合わせて語り合うことのできる空間は必要だと思っている。
旅を通して学んだ大切なことを、この場所で伝えていけたらなと思う。
自分で店をはじめた今、ましてやこのコロナ禍で以前のような旅には出れない。
だが、こうした毎日もまた旅なのだと思う。
ここにいれば新しい人々や出来事との出逢いがある。
遠くに行くことだけが旅ではない。
自分の心の持ち方次第で、どこに行っても何をしててもそれは旅となり得る。
これからどんなに歳をとっても、この心を持ち続けて旅を続けていきたい。
【プロフィール】
林 成樹
北海道:札幌「世界の料理とお酒 ハヤシ商店」代表
HP:https://hayashi-shoten-sapporo.shopinfo.jp/
お店では世界の料理やお酒を提供する傍ら、「旅」に纏わる写真展やトークライブなども開催。
また、定期的に様々なジャンルで活躍するアーティストを招いて「Sunday Market」というイベントを開催し、人と人との繋がりの場をつくり続ける。
NPO法人シネマラボ突貫小僧・代表
出不精である。なので、積極的に生まれ島の沖縄から出たことがない。
そんなぼくが、旅の達人たちが集まる本コーナーで何かしらを書くだなんて、おこがましいコトこの上ないのだが、しばしお付き合い願いたい。
ウンウン唸りながら数少ない旅の思い出について振り返ってみると、いつだって映画というフィルターを通して楽しんできたことに気づいた。馴染みのない場所でも、映画を媒介にすれば何倍でも楽しめるからだ。
例えば、東京といえばやっぱり怪獣である(?)。
知人の車で首都高速を走っているときに見かけた東京タワーには思わず興奮した。なんせ、かつて『モスラ』(1961年/本多猪四郎)が幼虫期に突進して破壊、真っ二つに折って繭を張るという、まさに“怪獣名所”なのだから。平成に入っても東京タワーは受難の地となる。『ガメラ大怪獣空中決戦』(1995年/金子修介)では、ギャオスが巣を作って禍々しい卵を産み育てるという厄災の発信地となった。
こんな感じで、東京を訪れる際は、必ずと言って良いほど“怪獣名所”を巡った。銀座の和光ビルは、記念すべきファースト『ゴジラ』(1954年/本多猪四郎)によって木っ端微塵にされたし、新宿副都心は、1984年版『ゴジラ』(橋本幸治)でバッキバキに破壊された街。目の前に広がる高層ビル群は本物なのに、ミニチュアのようにしか感じられず不思議な気がした。
もちろん、特撮以外にも東京が登場する映画は山のようにある。
歌舞伎町の猥雑さは『眠らない街 新宿鮫』(1993年/滝田洋二郎)そのものの熱気と妖しさに満ちていた。下北沢はその名もズバリ『ざわざわ下北沢』(2000年/市川準)の舞台で、サブカルチャーと古着、演劇の街。雑踏の中を歩いていると、劇中に登場した原田芳雄や小澤征悦がひょいと顔を出したりして…と、一人ニヤリとしてしまう。『TOKYO!』(2008年)は気鋭の海外監督3人が撮ったオムニバス。中でもポン・ジュノ監督の「シェイキング東京」は出色で、引きこもりの香川照之を主人公にしたおとぎ話。彼が家を飛び出してみると、普段は賑わっているはずの渋谷スクランブル交差点が人っ子一人おらず…という印象的な場面があるのだが、この感じ、実際に経験したことが無いのに分かってしまうのはナゼなのか。それは東京ならではの疎外感というか、独特な寂しさを心象風景として見事に表現しているからなのだろう。さすが『パラサイト』(2019年)でアカデミーを総なめにした監督だけある。
同じ都会でも、随分と表情が違うと感じたのが2006年に訪れたニューヨークである。
世界同時多発テロから5年目、イラク戦争の開戦から3年目ということもあってか、降り立ったジョン・F・ケネディ空港のターミナルは物々しい雰囲気で、重武装の警官があちらこちらでパトロールしていた。タイムズスクエアのど真ん中に米軍の募兵所が建っていたのが印象深い。まさにハリウッドのアクション映画のような世界観が眼前に広がっていたわけだが、こういうのは映画の中だけで十分。なんだか、やるせない気分にさせられた。そんなわけで、まずは911で崩壊したワールド・トレード・センター跡地「グラウンド・ゼロ」を訪れて、犠牲者の冥福を願い沖縄の線香(ヒラウコー)を捧げた(火をつけるのはさすがに止めた)。
なんだか鬱々とした光景ばかり頭に浮かぶが、もちろん楽しい気分にさせてくれたエピソードも多々ある。それは、ニューヨーカーは親切な人たちだってこと!
地下鉄の自動改札口を通れずに四苦八苦していると突然、黒人のおばちゃんが無言で開けてくれたり(Thank you!と言うと、これまた無言で親指を立てて去って行った)、どこかで昼食を取ろうとキョロキョロしていると、白人男性が英語とジェスチャーで美味しいタイ料理レストランがあるよ、と教えてくれたりと、こちらから声をかけずとも、困っている人に手を差し伸べてくれるのが嬉しかった。この街のあちこちでは、こういった些細な出会いから無数のドラマが生まれているのだろう。『フィッシャー・キング』(1991年/テリー・ギリアム)に、グランド・セントラル駅の中を行き交う人々がいつのまにかダンスを踊りだす、という美しい場面があるのだが、実際にその場所で佇んでいると、監督がそういう幻視をしてしまうのも、さもありなんと一人膝を打ったのだった。ニューヨークは自分を映画の主人公にさせてくれる街なのかもしれない。
2018年には韓国のチェジュ(済州)島を訪問した。
この島を訪れるきっかけは、地元主催のチェジュ映画祭から招待されたこと。沖縄現役最古の映画館「首里劇場」(1950年開館)を追った短編ドキュメンタリー『琉球シネマパラダイス』(2017年/長谷川亮)が前回の映画祭で上映されて、感銘を受けた映画祭スタッフが、本作に出演しているぼくを招待することになったという。沖縄というローカルな島の、映画興行史というさらにニッチな分野を研究している自分を招待するとは、なんとキトクな人たちだろうと思ったが、チェジュを案内されているうちに納得した。
チェジュ島は、韓国のいちばん南に位置する島。沖縄本島より少し大きい面積で、人口は約66万人。かつて独立した王国として栄えたこともあり、独自の文化や言葉を持っている。またマイノリティとして迫害された歴史があり、現在はリゾート地として有名だが、基地問題に揺れている…と、端々に沖縄との共通点を感じさせてくれる島なのだ。まるで合わせ鏡のような地域が、こんなに近くにあったなんて。
特にそれを強く感じたのが、チェジュ四・三記念館。太平洋戦争終結後の混乱期に島で行われた数万人もの虐殺について説明した施設だ。その展示物の冒頭が沖縄戦についてのもので、太平洋戦争がもう少し続けばチェジュ島が沖縄と同じ運命をたどる可能性があったという事実に驚愕した。なお、「四・三事件」については、『チスル』(2014年/オ・ミユル)という作品に詳しいので、機会があれば是非ご覧頂きたい。
重い話が続いたが、もちろんチェジュはそれだけの島ではない。コンクリート瓦の民家や、民俗村で見たワーフール(豚小屋)、沖縄のオバァの「カメ―カメ―攻撃」をさらに激しくしたアジュンマたちの過剰なサービスなど、沖縄とそっくりの風景や習わしが幾つもあって親近感が湧くこと限りなしの旅だった。
ちなみに事前予習としてチェジュ島が登場する『アウトレイジ 最終章』(2017年/北野武)を見たのだが、劇中のチェジュは千葉県で撮影されていたことを知って撃沈(笑)。でも劇中でタチウオを釣るシーンがあり、昼飯のときにタチウオ料理が出てきたときは「そう、これだよ!」と感動した。一人小躍りするぼくを見た地元民が、チェジュの魚がいかに新鮮で美味いかを教えてもらったので良しとしよう。
そこで知り合ったチェジュの方たちとは、その後も連絡を取り合っており、彼、彼女たちが沖縄に遊びに来るなど交流は今も続いている。そのときはカタコトの英語&スマホの自動翻訳でやり取りするのだが、おたがい映画好きだから通じる話が多々あり、映画ってやっぱり面白いなと改めて思ったりする。
最後に、旅先の一つとして、ぼくの住む沖縄を、映画を通してオススメしてみたい。
戦後27年間、米軍の施政下にあった時代「アメリカ世(ゆー)」の雰囲気を味わいたいなら、『Aサインデイズ』(1989年/崔洋一)を見てロケ地となった金武町の新開地へ行ってほしい。古ぼけた鉄筋コンクリートの建物や英語の看板、バーなど、ベトナム戦争景気に湧いた当時の匂いがする街だ。
『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980年/山田洋次)は沖縄本島各地で撮影された映画。寅さんが啖呵売する那覇の路地は、国際通りからむつみ橋通りのアーケードを通った突き当りにある。随分と雰囲気は変わったけれど、下町情緒は今も色褪せない。他にも『3-4x10月』(1990年/北野武)のロケ地となった若松卸問屋街は、問屋街といっても今は飲み屋街となっており、無国籍とも言うような不思議な空気が漂っている。
独特の自然や文化を求めるなら離島を目指そう。座間味島なら『マリリンに逢いたい』(1988年/すずきじゅんいち)、伊是名島なら『パイナップルツアーズ』(1992年/真喜屋力・中江裕司・當間早志)、粟国島なら『ナビィの恋』(1999年/中江裕司)、竹富島であれば『ニライカナイからの手紙』(2005年/熊澤尚人)、南大東島なら『旅立ちの島唄〜十五の春』(2013年/吉田康弘)…という風に、離島それぞれに舞台となった映画があるのが面白い。
というわけで、旅と映画の相性はかなり良いと思う。それは情報として読むガイドブックでは得ることのできない、生の感情が映画の中にあるからだ。
映画を通してその地域を見れば、何気ない風景も途端に鮮やかな色彩を帯び始めるはず。
あなた自身が旅という映画の主人公となるためにも、映画はきっと役に立つはずだ。
【プロフィール】
平良竜次(たいら・りゅうじ)
NPO法人シネマラボ突貫小僧・代表
書籍「沖縄まぼろし映画館」(當間早志:共著)同名コラムを琉球新報にて連載中
沖縄国際映画祭「沖縄ヒストリカルムービー」企画・運営
『洗骨』(2018年/照屋年之監督)メイキング撮影
編集
・
ライティング
旅好きを自称しながらいつもどこか抜けていて、しばしば予期せぬ状況に見舞われる。変なところで出費をケチったり、逆に散財してしまうのは相変わらず。唯一上手くなったと思うのは荷物まとめの無駄の無さだが、持っていく文庫本の重さには毎回目をつぶる。
10代の終わり頃から、焦燥感をぶつけるようにいくつかの国を旅した。歳を重ねた今、同じ旅ができると思わないが、予期せぬ出来事をどこかに求めてしまうのは当時の経験にあるかもしれない。
人生初の海外は1996年のトルコ。安いという理由で安全面に関して当時悪評の高かったロシア航空会社のオープンチケットを手配した。
瞼をスカイブルーに塗り、蛍光色に近いピンク色の唇をした体格の良いアテンダントが、ニコリともせず機内食を何度も運んできた。一泊のトランジットで深夜モスクワに到着し、空港から高速バスでホテルへ移動した際、窓の外は針葉樹が鬱蒼と生い茂り、巨大で無機質な看板が等間隔に永遠と続いた。辿り着いたホテルの部屋の壁はなぜか一面赤色に塗られ、一箇所に拳で殴った様な跡が深々と付いていた。チェックインの際、ヌガーやマシュマロ、ビスケットの沢山入ったビニール袋を無言で手渡されたが、それがBreakfastサービスだと気付いたのは翌朝のこと。そんな旅の序章をすべて笑い飛ばせるほど19歳の心は高揚していた。
イスタンブール滞在中、新市街と旧市街に分けるガラタ橋を何度も行き来した。橋のたもとに横づけされた小型船で売る、こうばしいバゲットに新鮮な焼き鯖を挟んだボリュームのあるサンドウィッチは、塩とレモン汁だけの味付けで、鯖のジューシーな油が滴りとても美味しい。漁師のおじさんは船がどれだけ揺れても平然とした顔で、長靴の片足だけ陸に乗り出して手渡してくれる。雑多な通りを抜けると、東京湾とは全く違う深い青色をしたボスフォラス海峡が広がっていた。
旧市街を歩くと「コニチハ!」「アリガト!」と客引が叫ぶ。クリクリした目の子どもたちが沢山寄って来るが、スリかと思って身構えるとどうやらそうでもない。悠々たるヒゲを蓄えたおじさん達は店先のテーブルで、チャイをすすりながら日がな一日ゆくっている。何処へ行っても出てくるこのチャイは、指先でつまむ小さなグラスに飽和寸前まで角砂糖を溶かした甘さだが、日が経つにつれてその味にも慣れた。
新市街に行くと雰囲気は一変、若者たちが、日本ではあまり目にしない配色のセーターを着こなして楽しげに闊歩する。エキゾチックな民族音楽にロックやポップスが混ざった演歌のような曲が街角に流れる。キオスクで買ったラッシー(塩味のヨーグルトドリンク)を片手に映画館に入り、公開直後の「ハンニバル3」を観た。トルコ語の音声と英語字幕によるそれは難解で、たいそう気味が悪かった。
深夜の高速バスでイスタンブールからイズミール地方へ向かった。バスターミナルに止まる色とりどりのバスはどれも埃を被ったように煤けて、車掌が乗客の手に振りかけてまわる香水と、スパイスの香りが車内には充満していた。到着まで8時間、途中でトイレに行きたくなったらどうしたら良いのか、ただそのことが不安だった。
バスは数時間走り、突如走行を止めた。窓の外には人、人、人の波。デモ行進だろうか、シュプレヒコールをあげるでもなく高揚した表情を浮かべた人々が、暗闇の中を同じ方向へ歩いている。車掌にたずねると「don’t move anymore」の一点張り。とにかくバスはこれ以上動かないのだと腹をくくる。ハイウェイは一本、幸い人々の流れはバスの進行方向と一致していた。この波に入って歩けばいつか到着する。
夜通し歩いて目的の村に着いた頃には空が明るんでいた。後になって、あれは歴史上の何か大きな事件に遭遇してしまったのではないかと思った。旅行カバンのタイヤ部分が破損して残りの旅路は苦労したから、夢じゃない。表情の読めない言葉の通じない群衆と砂利道を進んだ時の、喧騒と巻き上がる砂埃。不安の中でどこか笑い出したいような感覚がこみ上げた。
アルテミス神殿を観光した。紀元前700年頃を起源に今は廃墟となり、だだっ広い草原に石の塊が点在していた。
ひととおり観た後で気分が良くて、草原の道なき道を進んだ。すると足元に動物の背骨の様なものが落ちていて、思わず手に取った。接合部分の細やかな造りと、振るとしなやかにカーブを描く動きに見入る。太さからしておそらく人よりも大きめの動物の骨。手に取るのをためらわないほどに白く乾いていた。
どこからともなく一匹の中型犬が現れてつきまといはじめた。次第に一匹また一匹と数は増えて気づいたらぐるりと囲まれていた。みんな私に向かって敵意を剥き出し吠えている。これはまずい。なぜならここは異国で、周囲に人の姿は見当たらず、相手は人間では無い。一瞬気が遠のいたが、すぐに頭の中は静まった。彼らを刺激しないように少しずつ歩を進める。進む方向を間違えないよう、ここは堪に頼るしかない。
彼らのテリトリーに入ってしまっていたのだろう。不思議なことに、犬たちは徐々に離れていった。最後の犬が居なくなって一人になった時、手の中の骨のことを思い出して、アンダーで空に向かって大きく投げたつもりが、それは足元に落ちた。
トルコを皮切りにしたその後の旅の記憶も断片的だ。クレイアニメに魅了されて訪れたチェコの、高台から街を眺めた宝石箱のような景色。プラハで仲良くなったおじさん達が見せてくれた地下の工事現場。タイではソンクラーンの只中、水をかけられることに飽きてホテルに缶詰になった。薄暗いロビーに一日中いる物憂げなスイス人の若者が「兵役を免れるためにしばらくここに居る」と話す、その背後の窓から、キラキラした祭りの喧騒が見えた。そんなごく個人的な旅の記憶が、ふとした時に鮮明に思い出される。
沖縄に住むようになり何度か離島取材へ行く機会をもらったが、毎回外国に来たような感覚になる。固有の言語がありそれを話すのはもはや一部の高齢の方で、言葉が通じなくて困ったことは無い。しかし共通語として使っているはずの日本語が微妙に違った意味を含み、神事や祭事を軸とする生活感覚や哲学は、本土の日本人と全く違う。準備してきた取材の趣旨が一筋縄でいかないことは多々あり、20代の私は、八重山諸島のとある島で一人途方に暮れた。
ボリュームある特集ページの掲載で、ある程度観光的要素も求められたが、商店や宿が数軒しか無いマニアックな島で、下準備をしようにも一体どうしたものか。島の恋歌を無理やりキーワードに「恋の島、唄の島」と、なんともフワリとした仮タイトルを提げて島に降り立った。
運良く初日、港前の広場で繰り広げられていた宴に潜り込んだが、原稿のことが頭をチラついて、準備してきた質問を投げてもただポカンとされる。海人は「ここは酒の島だ!」と叫んで見たことのない独自の踊りを展開、一緒に踊れと手をとられてアワアワ。同行していたカメラマンがそれを見て「オメーは島の人を理解する気があるのか」と怒った。
このカメラマンはいわば大先輩で、離島取材に行くとすぐに現地の人と意気投合し、一緒に酒を酌み交わした。この日、経験の浅い編集者である私に早々見切りをつけて、終日ほぼ別行動で動き回っていた。撮れ高の手応えがあったのだろう「先に帰ってい〜い?」と言われたが、私には何も見えてきておらず「ちょっと、勘弁してください…」。駄目なことは駄目だとはっきり伝えてくれる彼から教わったことは数知れない。とりわけ島人を撮影した写真に関して、右に出る方はいないと、私は今でも思っている。
さて先述の怒られた状況に戻ろう。人に話を聞きたいのであれば、こちら側の殻を破るのが礼儀、今になればそういう意味だと思う。当時の私は途方に暮れて、民家を改造した宿で出されたイマイユの煮付けに手をつけず、外に出て満点の星を見上げて泣いた。島に知り合いはなく解決策も浮かばず、独りよがりに、本当に今一人だと感じた。
朝になって私がしたことは、ただ歩くこと。その時、離島を回るなら早朝が良いことを知る。途中、昨日と同じ黄色いTシャツを着て、3匹のヤギを連れてペタペタと歩くカメラマンに出会った。浜辺で眠り、起きたら靴の中敷が無くて、探しているうちに野生のヤギがお伴してるとのこと。
それから藤岡弘に似た郵便局員のおじさんに会った。彼も昨夜の宴会で私に手厳しい話をした(要するに絡んできた)が、郵便局の前に2人で座り、小一時間ポツポツと唄の話をしてくれた。そこへやって来た、笑顔の綺麗なおばあちゃんがご自宅に招いてくれて、戦争時の話を聞いた。この世とあの世の境界の無い夢の中にいるような話で、おばあちゃんは神様みたいに見えた。それら全てが取材の原稿になった。
「途方に暮れたら歩け」と、旅が私に教えてくれた。
【プロフィール】
松村葉子
編集・ライティング・イラスト・漫画
岐阜県出身、沖縄県在住。
「母さん新聞」「てのひらマガジン」発行人。
HP:https://ha-ppano.jimdofree.com/
3人の子どもたちが独立したら長期旅に行きたい。もしくはみんなで行くか。
目下の興味はチベット、ミャンマー。
風の旅行社 代表取締役
私は、本業の傍ら昨年まで大学でツーリズムのゼミを6年間担当していた。旅は、しなきゃ解らない。説明などいらない。 そう思い、生涯一度たりともモンゴルやネパールに行こうなどと考えたことのない学生たちを、半ば無理やりこの2つの国へ連れ出した。
成田空港に集合した12人の学生をつれてモンゴル航空のチェックインに向かうと、1人の女子学生が「本当にモンゴルへ行くんですか?」と不安げな顔でいうから、「さあ、行くぞ」とだけいって出国審査へと向かった。 どこへ連れて行っても平気そうなのは4人ほど。後のメンバーは、行きたくないオーラを思い切り私に向けていた。
ウランバートルで2泊し、翌日には車で3時間ほど行った草原のゲルキャンプ(弊社直営のほしのいえ)へ行って2泊した。 ウランバートルの街を抜けて1時間ほどで草原が広がってくる。遠くに数えきれない家畜の群れが見え、遊牧民の白いゲル(テントの家。中国ではパオ)が点々と見えてくる。 その光景に歓声が上がる。草原は、バスから見る分には雄大で美しい。
旅のプログラムは、乗馬や遊牧生活の体験などだ。草原2日には、近くの村の学校を訪問し、遊牧民の子供たちが生活する宿舎に1泊。 翌日は、校舎を囲む500mほどの柵のペンキ塗り。夕方には、ほしのいえへ戻った。 最初は、草原に家畜の糞が落ちているのを避けて歩いていた彼らが、最後には草原に寝ころび星を眺め、馬が怖いといって泣きべそを掻いていた学生も2回目には3時間の乗馬をみんなと一緒にこなした。
モンゴルの夏は夜の9時くらいまで明るい。ほしのいえでは、その日のプログラムが終わってからは、夕食まで学生たちは、モンゴル人の乗馬インストラクターやほしのいえのモンゴル人スタッフたちとバスケットなどで2時間ほど思い切り体を動かした。まるで子供のころ夕日が沈むまで遊び惚けた時間を取り戻すかのように夢中になって遊んでいた。草原に来るまでは、SNSがなきゃ生きられないといっていたのにすっかり忘れてしまったらしい。女子学生たちの数人は、乗馬のインストラクターの誰が格好いいだの元カレに似ているだのと大騒ぎ。私は、シャワーを浴びてゲルの前の椅子に腰かけ、ビールを飲みながら暮れいく夕陽と草原を眺めて時間を過ごした。至福の時である。
草原からの帰り道、バスが川を横切ろうとして水にはまり止まってしまい、乗馬のインストラクターたちが学生たちを背に負ぶって川を渡る羽目になった。 ところが、女子学生たちは大喜び。またもや負ぶってもらうモンゴル人をめぐって、誰がいいだのいやだだのと大騒ぎである。 彼らの名誉のために言い添えておくが、ウランバートルに戻ってからは、モンゴル国立大学の日本語学科の学生たちと交流し、最後の夜は、夕食後も旅の振り返りをしてモンゴルが抱える様々な課題をも考察した。 帰国後は、旅行記も仕上げ、来年私のゼミに入るだろう下級生たちに、原ゼミはこんなゼミとだとモンゴル旅行の報告を交えながらプレゼンもやってくれた。
ウランバートルの空港では、「本当に帰るの?」と、成田空港では来たくないオーラを出していた連中が、今度は、帰りたくないオーラを私に向ける。 理由はともかく、旅は、短期間で人を変える力を持っており、若者の柔軟な適応力を呼び覚ましもする。かくいう私も1988年、昭和の最後の年にネパールへ行っていなければ、この仕事はしていなかっただろう。旅が人生を変えたのである。
四半世紀ほど前になるが、この仕事をするようになって数年したころ、6歳ほど年上の先輩に「旅はリゾートさ」といわれて強烈な違和感を覚えたことがある。 「旅は、発見であり、学びであり、出合いだろう」。そう思っていた私には理解ができなかった。その私が、今は、リゾートへ行きたいと心底思う。山でも海でもいい。疲れを癒したい。身体もさることながら心を軽く、否、出来れば空っぽにしたい。旅には人を心身ともに癒す力がある。
旅は、人生の各ステージで意味合いが変わる。一概にこうあるべきだというものはない。若者は旅から学び成長の糧にするだろう。 年を重ねれば、癒しを求め休息のために旅をする。そして、次第に道連れが欲しくなる。ゆったりと時間を共有できる人と旅が出来たらこんな素敵なことはない。きっと象的な思い出となって残るだろう。
【プロフィール】
原優二
風の旅行社 代表取締役
1956年生まれ。東京都職員、長野県丸子町の小学校教員を経て、1990年に東京の海外旅行専門の旅行会社に就職。
1991年、風の旅行社設立。代表取締役に就任。2014年より2020年まで、亜細亜大学経営学部ホスピタリティマネージメント学科客員教授を兼任。
著書『風の旅行社物語』では、風の旅行社の歴史から旅への思いまでが熱くつづられています。